私は日本地図を作った伊能忠敬の『誤算』に同情する

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どうも、人生の地図が未完成のジョンです

伊能忠敬といえば、江戸時代後期に日本地図を作製した偉人として有名な人。

測量技術はおろか交通路も未発達な時代に、日本中を「歩行測量」して近代的な日本地図を作った偉業は素晴らしいもんです。

コツコツと努力を重ねて大きな結果を残すというのは、本当に凄いことだと思います。

でも何が一番驚くかって……測量の旅に出たのが『56歳』という年齢だったことですよ。

男子の平均年齢が「40歳ぐらい」という時代、もはや「おじいちゃん」じゃないですか。

しかも、勉学を始めたのは50歳を過ぎてから。

そして55歳という晩年になってから、この一大プロジェクトに乗り出し見事に成功させました。

……

30代は、まだ人生が始まってさえいないのかもしれない……。

伊能忠敬を思えば、不思議と勇気が湧いてきます。

それにしても、どんだけ元気なおじいちゃんやねん。

「元気の秘訣は?」

「歩くことです」

やかましわ

現代の高齢者も元気といいますが、だとしても日本中を歩き回るとなると次元が違います。

もしかしたら、身体を鍛えていたのかもしれませんね。

例えば……1日40秒のエンゼル体操とか。

「男なら目立たなくちゃ♪体だけは鍛えなくちゃ♪」って。

なんせ、顔なんか悪くたって三角筋ですからね。

いや……ムキムキマンの話とか、どうでもいいんですよ。

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肉体的に苦労した忠敬

……冗談はさておいて

事実、56歳から日本中を歩き回っていたわけですから、少なくとも「年齢のわりには身体が若い」というイメージがあります。

ですが実際のところ……伊能忠敬は強健でも健脚でもありませんでした。

それどころか、どちらかといえば「病弱」で「ひ弱」だったそうな。

忠敬は幼少の頃から身体が弱く、21歳のときには長い間、病の床に伏した生活をしていました。

それは晩年になっても変わらず、喘息の持病があり、寒さにも弱い体質で、風邪や発熱に悩まされていたといいます。

たしかに教科書に載っているような肖像画を見ても、体型は痩せていますし、とても強健な肉体を持っているとは言えません。

旅先で何度も病気になり、後年は老齢のために歯も弱くなって「ろくに物が食べられない」と悩んでいたそうな。

つまり、同じ「おじいちゃん世代」でも肉体的にハードなことを……

普通の人よりも身体が弱い伊能忠敬がやってのけたということです。

素晴らしい!!

本当、大変な苦労をなされたのに……ムキムキマンの話なんかして失礼しました。

言っておきますけど「ムキムキマンの話なんか」って、べつにムキムキマンを悪く言っているわけじゃないんですよ。

そもそもムキムキマンっていのうは……

いや……ムキムキマンの話は、もうええねん。

偉業を成し遂げることになった目的

……ところで

そんなにしんどい思いをしてまで「測量の旅」を続けたわけですから、よっぽど「地図を完成させる!」という強い信念でもあったんでしょうか?

現に伊能忠敬が地図を作製したことによって、日本の歴史は変わっているはずです。

「精密な日本地図を作れば、これからの人々の暮らし向きが良くなる」

もしかしたら、そういった一心で続けていたのかもしれませんね。

とまあ、そんな美談で終わればよかったんですが……

残念ながら、伊能忠敬の本当の目的は「地図作り」ではありません。

ましてや、初めて実測歩行した「蝦夷地の探検」でもありません。

実は……「地球上の”どの位置”に日本があるのか?」を確かめたかったんです。

……

……はぁ?

そうなんです。

西洋天文学を学んでいた忠敬は、日本の地形よりも「地球上での位置」の方が気になったんですね~。

というのも、それは忠敬の師である『高橋至時』も同じ思いだったからで、とにかく、この二人はそこが知りたかったんです。

まさかの大誤算

さて、正確な位置を知る方法として、まず「緯度一度の長さ」が実寸でどれくらいの距離になるのか確認しなければいけません。

……なんて言っても、簡単にできることじゃありませんよね?

そこで忠敬と至時の二人は、幕府に「地図作り」の提案をします。

当時の日本は、樺太や北海道沿岸で外国船が姿を見せる頻度が増していました。

どういうことかというと、北蝦夷地の警護の必要性が高まっていたんですね。

そこで「堅固な守りのためには地図が必要なんだ!!」と幕府を説き伏せることにしました。

……はい、ここで確認ですが

べつに「蝦夷地に行くこと」が目的でもなければ、「地図作り」をしたいわけでもありませんよ。

本当の目的は、蝦夷地へ辿り着くまでの「東北地方の長い海岸線」

実測歩行するのに、それだけの長さが必要だったというわけです。

……さて

努力の甲斐もあって、1800(寛政12)年に第一回の『蝦夷地測量』が始まりました。

ただ、雪と氷に悩まされて数か月の測量だったため、二度目の測量を願い出たら、今度は江戸近辺の測量を命じられます。

これはピンチ!

蝦夷地への測量ができないと「本当の目的」が果たせそうにありませんからね。

ですがこのとき、命じられたのが伊豆半島から東北地方沿岸までの広い地域だったんで、測量の過程で「子午線の一度の距離」を確認することができました。

ちなみに、その距離は『二十八里七町十二間=約111キロメートル』です。

こうして伊能忠敬の目的は見事に達成されました。

ところがギッチョンチョン

このときに作製した地図に対する「幕府の評価」が高かったもんで、そのまま忠敬は本格的に地図作りに取り組むことになってしまいましたとさ……。

いいじゃん♪上手くできてるからさ~、このまま全国の地図も作っちゃってよ

……んなアホな

忠敬ちゃんなら大丈夫っしょ♪

かしこまりました(地図作りとか、どうでもいい!!それより家で寝てたい)

偉業を成し遂げたとはいえ「本当はゆっくり休みたかったんじゃないかなぁ?」なんて思います。

伊能忠敬には測量の腕がありましたが……

「自身の技術がどれだけ評価されるか?」までは計り知れなかったようですね。

おあとがよろしいようで。

それではまた、別の話でお会いしましょう

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