ジョンです
ここ十数年の間に「自分は人見知りだ」と悩んでいる人が異常に増えている気がします。
そもそも『人見知り』ってなんでしょう?
もともとは内気や恥ずかしがり屋さんのことでしたが、いつの間にかコミュニケーションが苦手なことにも使われるようになりました。
じゃあ、コミュニケーションが苦手な人が異常に増えたんでしょうか?
んなこたぁない。
初対面の人や親しくない人と「気さくに話せない」という人は昔から多いはず。
実際、日本人の多くにはこういった傾向があります。
もしかしたら、人見知りを「定義づけ」しているから自覚する人が増えたんじゃないですかね?
どこかで聞いた話ですが、「肩こりの概念」が無い国では実際に肩こりで悩む人がいないそうな。
そこに当てはめると、人見知りという言葉があるから「僕も」「私も」と手を挙げる人が増えてきたのかもしれません。
私は悩まなくてもいいと思うんですよ。
先ほども言ったように、そもそもの『気質』なんですから。
それなのに悩む人が異常に増えているのは、「人見知りを克服しよう!改善しよう!」なんていう動きがあるからだと思います。
どうも世間では「人見知り=コミュニケーションが取れない人間」みたいな風潮があるようですからね。
……人見知りって、そんなに良くないものなんですか?
私からすれば、人見知りを受け入れない世の中のほうが良くない気がしますよ。
他人が決めている
私は人見知りではありません。
初対面でも親しくなくても問題なく会話ができますし、知り合いからも社交性があると言われています。
見知らぬサラリーマンに「この辺で飲食店はないか?」と尋ねられたときは、行きつけの中華料理屋に案内して一緒に食事をしたこともありました。
「人見知りかどうか?」とは少し違いますが、今より若い頃は街中でもナンパをしていたくらい積極性もあります。
「自分は人見知りだ」という人からすれば異常かもしれませんね。
でも、そんな私も相手によっては人見知りだと思われているんですよ。
不思議ですか?
実は……『理由』が無ければ、自分から話しかけないんです。
相手に用件があるか興味があるか、話したいことがあるかどうかで違ってきます。
いやいや、これって当たり前の話ですよね?
それ以外にコミュニケーションをとる理由なんてありませんよ。
だから興味が無い相手や業務連絡しかしない相手からは、「この人は話しかけてこないから人見知りなんだ」と思われているんです。
人見知りの特徴に「人に興味が無い」というのがあって、克服には「相手に興味をもつことが大事」と言われています。
……なんか変じゃないですか?
興味という『目的』のためにコミュニケーションという『手段』を使うんですから、そもそも目的が無いなら手段も何もないでしょう。
興味が無い状態ならコミュニケーションをとる必要はないと思いますよ。
それを良くないこととして「興味をもつべき!」「改善すべき!」と言い切ってしまうのはねぇ……。
コミュニケーションをとるために興味をもつって……なんだか目的と手段があべこべな気がします。
人見知りに問題は無い
はじめのほうで言いましたが、世間では「人見知り=コミュニケーションが取れない人間」という風潮があるようです。
でも、私のように必要なコミュニケーションをとっていても、相手からは人見知りと思われる場合だってあります。
用件だけで何の問題も無いのに、それ以上の会話を求められるというのは、もはや『コミュニケーション能力』の問題ではありません。
相手に興味をもっていないだけで「人見知りだ」と思われてしまうんですから。
じゃあ『人見知り』ってなんなんですかね?
もしかしたら、自分が期待しているコミュニケーションを相手に求めているだけかもしれませんよ。
つまり、コミュニケーションで期待に応えてくれない人を『人見知り』と呼んで線引きしているわけです。
多くの場合、人見知りでも相手と親しくなれば普通に会話ができると言われています。
だとすれば「人見知りの状態」というのは、関係性を作り上げていく準備段階のようなものです。
いわば「心を開くまでの時間」ですから、それに個人差があるのは当たり前じゃないですか?
人見知りは、その時間が他の人より長くかかるというだけの話です。
じゃあ、べつに問題は無いですよね?
それを良くないと言うのは、まるで「準備段階を飛ばして関係性を築け」と言っているように聞こえます。
「人見知りは良くないから克服しよう!」という考え……私には違和感しかありませんよ。
見えてきた真実
世間の「人見知りに対する考え」を裏側から見ると……
- 興味をもってどんどん話しかけて欲しい
- 期待しているようなコミュニケーションをして欲しい
- 最初から心を開いて話して欲しい
なんやねん。
お前は人見知りか!!
……あれ?
冒頭でも言いましたが、そもそも日本人の多くは人見知りの傾向があります。
でも、それを良くないこととして改善するべきだと言われています。
それなのに人見知りは減るどころか増えるばかり……。
そりゃあそうです。
人見知りを否定すること自体が『人見知り』なんですから。
もしかしたら、本当に問題なのは人見知りじゃなく、それを否定してしまうことかもしれません。
たとえ内気でも、心を開いていなくても、声にならない声だとしても、相手に耳を傾ければ少しずつでもコミュニケーションはとれるはず。
それなのに自分が思ったような会話ができないから、「あぁ、この人はコミュニケーションがとれない」なんて決めてしまう。
そういった人たちを『人見知り』と線引きして「良くないこと」と定義づけする。
人見知りはコミュニケーション能力が低いなんて言われていますが、実際は相手を人見知りと線引きする側が低いのかもしれませんね。
なんせ相手の声に耳を傾けられないんですから。
人見知りは直せない
「人見知りは良くないから改善すべき」という世間の常識。
私はこれを「相手の声に耳を傾けられない多数派」、いわばマジョリティーが作りだした集団意識だと考えています。
でも、その多数派の正体は……実は人見知りでした。
だから永遠に無くなりはしません。
「人見知りは良くない」という考えが強くなるほど、相手の声に耳を傾けることを忘れてしまいますから。
自ら『人見知り』になろうとしているんですよね。
このように人見知りが「単なる集団意識の幻」だとしても、そう定義づけされた世の中を生きることに変わりはありません。
じゃあ、世間から線引きされている人はどうしましょう?
それでも人見知りを否定し、改善しますか?
「人の目を過剰に気にするから人見知りになる」なんて言われていますよね。
だから、自分がどう見られているかを気にしないことが改善には大事だと。
あれ?ちょっと待ってくださいよ。
人見知りを改善するって……それ自体が人の目を気にしていませんか?
本当に人の目を気にしないならば、他人から人見知りに思われても構わないはずです。
極端な話、「会話ができない」「つまんない」と思われても平気なんですから。
私はそう思われていたとしても……そもそも興味が無い相手ならば、どう思われても構いませんけどね。
否定をせずに受け入れる
人の目を過剰なまでに気にする必要はありません。
他人にどう思われているかで悩む必要もありません。
でも、それは人見知りを改善するためではなく、『幻』を生み出す集団意識から離れるためです。
もし「自分は人見知りだ」と悩んでいるのなら、無理してマジョリティーに溶け込むんじゃなく、いっそのこと『自由』になりませんか?
私は人の目を気にせず話しかけますし、他人にどう思われようと話したくないときは黙っていますが、それでも何の問題もありません。
他人は自分が思っているほど見ていませんし、害が無いなら、それほど気にしていないものですよ。
それでもまだ「人見知りの自分」に悩むなら、これからは相手の声に耳を傾けてみませんか?
人見知りというのが相手との関係性を築くまでの準備段階なら、全人類と仲良くならない限り、それは無くなりません。
でも……その状態で過ごす時間を短くすることはできるはずです。
それが「相手の声に耳を傾ける」ということ。
だって、もしかしたら相手も同じ「人見知りの状態」かもしれませんからね。
自分も悩んだことがあるんなら、きっと相手の心に寄り添えるはずです。
そのほうが無理に自分を変えるより楽だと思いますよ。
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