どうも、国語の成績は平均点のジョンです
先日、ふと疑問に思いました。
「たいした価値がない」という意味の四字熟語『二束三文』
一体、何が二束で三文なのか?
二束三文なんて言葉は当たり前のように知っていましたが、逆に当たり前過ぎて考えてもみませんでしたよ。
でも、この“何か”は意外と重要な問題かもしれません。
だってそうでしょ?
いくら三文が安いといっても、それが商品に対して“値頃”だったら「たいした価値がない」とは言えませんからね。
例えば、高級ブランドバッグが500円で売られていたら、それはもう価値がないも同然。
でも……これが砂消しゴムなら、中々の割高。(謎のチョイス)
つまりは「何が二束か?」によって、四字熟語の意味が成立しなくなるということです。
もしかしたら「たいした価値がない」という意味は、言葉だけを見て現代人が勝手につけただけなのかもしれない。
本当は、ほうれん草や小松菜を大安売りする際の“お決まり価格”だったのかもしれない。(それはない)
……とにかく、
このままだとモヤモヤしちゃうんで、ちょっと考えてみましょうかね。
草履説
一体、何が二束で三文なのか?
それを調べたところ……
残念ながら明確な答えはありませんでした。(無いんかい)
こういう四字熟語とか故事成語って、辞書には言葉の成り立ちが説明されていたりするもんなんですけどね~。
幾つかの辞書を調べましたが、どれも同じような説明ばかりです。
「二束三文とは、二束で三文の価値しかないということ」
わかっとんねん
こっちは何が二束かを知りたいねん
辞書ですら載っていないなら、お手上げかもしれませんね。
ただ一説には、金剛草履のことかもしれないと云われているそうな。
金剛草履……なんか強そうですね。
天手力男神(アメノタヂカラオ)が履いていたんでしょうか?
実はこれ、農民が副業で作っていた安い草履のことなんです。
それが「二足三文で売られていたんじゃないか?」というのが、金剛草履説の解釈でした。
なるほど、安い草履だから二足で三文だというわけですね。
でも金剛草履説を探ると、こんな情報もありました。
「金剛草履は二足三文で売られていない」
どないやねん
簡単に諸説が覆ってもうたがな
まぁ、草履やのに“二足”じゃなく“二束”になっている時点で違和感があったんですけどね……。
……
ん?ちょっと待てよ……
たしか草履や草鞋(わらじ)っていうのは、作った物を全部まとめて束ねておくんですよ。
今のサンダルみたいに左右の組み合わせが無いんで、一緒くたにしても問題ありませんからね。
これだと持ち運びに便利やし、売るときにも吊るした束から外すだけなんで手間が掛からないんです。
売り歩くときも束を棒にぶら下げて担ぐだけ。
丁寧に扱う必要がないから、物売りの中でも比較的楽な商売だったのかもしれませんね。
……それはそうと
二束三文の“二束”というのは……
この「まとめられた草履の束」を指すんじゃないかと……。
いや、分かりますよ。
ただでさえ二足で三文は安いのに、それが二、三十足まとめて三文て……。
こんなもん価格破壊どころの話やありません。
江戸時代当時、一文銭は30円くらいの価値だったといいます。
それが三枚なんで90円。
色を付けてキリよく100円としても……30足100円の草履。
どんだけ値打ちがないねん
でも、これなら二束三文の「たいした価値がない」という意味がピッタリ当てはまるかもしれませんね。
べつに例えていないかもしれない
「草履の束が二つで三文」という解釈なら、金剛草履説は活きてくるかもしれません。
大量に売れ残った草履を叩き売ったことが語源とも考えられます。
でも、なんか釈然としないんですよね~。
だって……こんな解釈は少し考えれば誰だって思いつきます。
私は単なる時代劇好きなだけであって、時代背景を研究する専門家じゃありません。
これが本当に正しければ、既に日本語や歴史学の偉い人たちが辞書に載せているはずです。
それなのに、解説どころか一説の中にも入っていない。
やはり金剛草履説は「諸説の域」を超えないのかもしれません。
いやはや、一体“何”が二束なのか……。
……
……ん?
少し考え方を変えてみましょうかね。
私はずっと“何か”が二束で三文だと思っていましたが、もしかしたらそれは「何でもない」のかもしれません。
何でもないようなことが、幸せだったと……
というのも、この四字熟語は「二束三文にもならない」という使い方をします。
これが仮に金剛草履説だったとしたら「二束で三文の草履ほどの価値にもならない」という意味合いになりますが……
ちょっと回りくどいですよね。
それなら「二束三文だ(二束三文の草履程度だ)」と言ったほうが言葉も渋滞しません。
わざわざ「~にもならない」と言うからには、この表現に適した意味があるはずです。
……と、ここで再び辞書の説明を確認。
「二束三文とは、二束で三文の価値しかないということ」
もしかしたらこれは、言葉の対象になっている物を指しているのかもしれません。
つまり、たいした価値がない“何か”に例えているんじゃなく、直接的に「価値がない」と言っているわけです。
例えば、私が粘土細工を作ったとして……
「こんなものは、まとめて束にして、それが二つあったとしても三文の価値もない」みたいな感じ。
束というのは複数を表現したもの。
二という数は三文に掛けた言葉遊びかもしれませんが、束(複数)が二つで更に多いことを表しているとも考えられます。
要するに
「たとえ同じ物がどれだけあっても、そもそも値打ちがないんだよ」ということです。
どうです?
これなら「二束三文にもならない」という言い回しがピッタリ合うんじゃないですか?
もちろん、これが正解かどうかは分かりませんけどね。
でも疑問の落とし処として、とりあえずは一件落着としましょう。
……ところで
“三文”という言葉は、昔から「たいした価値がない」という意味で使われていますよね。
三文芝居とか、三文判とか。
でも、そうして考えると……
早起きは三文の徳って、どうなんでしょう?
たいした価値もないのに早起きする理由って……。
実はこれ「早起きすると、わずかでも価値がある」という教えなんだとか。
「無いよりはあったほうがいい」みたいな感じですかね。
ただ昔は「早起きしても、たいした価値はない」なんて意味で使われていたこともあったそうな……。
ん~
……私は後者ですかね。
それではまた、別の話でお会いしましょう
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