※今回は『命』というデリケートな内容を語っているんで、人によっては心を痛めるかもしれません。
「そういった話を軽々しく口にして欲しくない!」という人は、申し訳ないんですが耳を塞いでくださいね。
ジョンです
私が使っているスマホアプリ(正しくはタブレット)の一つに「カウントダウンウィジェット」があります。
これは記念日や予定日などをあらかじめ設定しておけば、それまでのタイムリミット(日・時・分)をホーム画面に表示してくれるというもの。
普通であれば予約や締め切り、約束などのスケジュール管理に使うものですが、私はこれに『寿命』を設定しています。
そのリミットは60歳の誕生日まで。(※念のため言っておきますが、これは予定ではなく、あくまで“予想”です)
ちなみに私は大病を患っているわけじゃありません。
医者から余命宣告を受けたわけでもなけりゃ、生まれつきの持病を抱えているわけでもありません。
頭の中は“まとも”じゃないですが、身体のほうは割とここまで健康体でやって来ています。
だから、場合によっては反感を買うかもしれませんね。
病を患っている人や身内が苦しんでいる人からすれば、「健康なくせに、何が残りの日数だよ!!」と石をぶつけたくなるでしょう。
でも、これは決してふざけているわけではなく、至って真面目に、且つ、冷静に自分の人生と向き合った結果なんですよ。
偶然か?運命か?
私の父親は61歳のときに癌で亡くなりました。
昔から大きな病にかかったことはおろか、風邪をこじらせるのも数年に一度くらいの健康体で、その肉体は若々しく、実年齢が幾つであろうと必ず10歳下に見られるほどです。
また、40代の頃にバイクで事故ったときも「顔に擦り傷を負うだけ」という運の強さもありました。
それが癌を発見してから、わずか一年半でこの世を去るというあっけない結末です。
人生2万日(およそ55歳)の時代からすれば長生きの部類ですが、現代の平均寿命からすれば20歳も若い年齢といえるでしょう。
現に父親は「老後」を迎える前に人生を終わらせています。
実は父親の父親……つまり私の祖父も60歳のときに癌で亡くなっていました。
これを「単なる偶然」と捉えていいものか?
年齢だけなら偶然と言い切ることもできますが、原因と発症の時期がほぼ一致しているならば、そこに遺伝子との因果関係を考えてしまうというもの。
だから私はこう考えます。
どうやら短命の『遺伝子』を受け継いだのかもしれない……。
きっと多くの人は「馬鹿げた話だ」と笑うでしょう。
でも私の知る限り、若い父親が亡くなった場合の息子は、往々にして「寿命の不安」を抱えているといいます。
それは病気だけではなく事故だとしても同じことで、きっと頭の中には『運命』という言葉が過るはずです。
生まれた時から前を歩いている背中が、突然、歩みを止める。
自分に分け与えられた命の“基”が、突然、終わりを迎える。
ある意味で「道標」のような存在が、志半ばで消えてしまうとき
果たして自分はその背中を超えられるのか?
受け取った命は、それ以上に続くのか?
「もしかしたら、結末さえも辿ってしまうのではないか……」という不安が顔を覗かせます。
遺伝子を受け継いでいるのか?
それとも運命を受け継いでいるのか?
いずれにせよ、私の前を歩く背中は61歳で立ち止まり、その前を歩いていた背中も60歳で歩みを止めたのは事実。
……故に、私も同じ結末を迎えるかもしれない。
これが自分の寿命を60歳とした理由です。
ま、あくまで予想ですけどね。
ちなみに、この話は私の周りでも親しい人間にしか話していませんが、多くの人はここまでの内容を聞いただけで一様に「悲しい話だ」と受け取りました。
特に女性は「そんなことないよ」「もっと長生きするよ」「悲観したらダメだよ」と励ましてくれます。
その優しさと気遣いは嬉しいんですが……そういう話ちゃうねん。
早合点して欲しくないんですが、私は一度も「死にたい」と口にしていませんし、「60歳で死ぬつもりだ」とも言っていません。
再三言っていますが、ただ単に「そういう可能性は考えられるよね~」という予想の話。
そして本当に伝えたいのは、これから話す内容なんですよ。
ニヒリズム(虚無主義)
あくまで予想として、私は60歳の誕生日を人生のリミットに仮定しています。
もちろん、その歳で終わりを迎えたいわけじゃありません。
でも……その歳で人生の幕を下ろすことに覚悟はあります。
私は16歳のときにバイク事故を起こしました。
若気の至りでスピードを出し過ぎ、カーブを曲がりきれずにガードレールへ激突する派手な事故です。
一緒に走っていた友達は、ミラー越しに宙を舞っている私の姿を見て「完全にアウトだ」と思ったそうな。
でも実際は目立った外傷もなく、搬送先の病院では様々な検査を行いましたが異状なし。
翌日には何食わぬ顔で学校に登校し、友達の目を丸くさせたのを覚えています。
その半年後……私の幼馴染がバイク事故で亡くなりました。
交差点を曲がった先で、違法駐車していたトラックにぶつかって即死だったそうです。(それなりにスピードを出していたんで)
彼と私の違いは何だったのか?
それを「運」という言葉で簡単に片付けるには、あまりにも失うものが大き過ぎます。
だからといって、私の命が救われることに特別な意味があると考えたら、同時に、彼が命を失うことの理由を考えてしまうことにもなる。
……そんな事は考えたくもない。
やはり、これは不条理なルールの上で投げられた“コインの裏と表”でしかないんです。
ともすれば、いずれは私にも「コインが裏を示す時」が来るでしょう。
それに気付いたとき、私は“ほんの少し”だけ変わりました。
「夏休みは終わらない」と思って過ごすのと、「夏休みはいつか終わる」と理解して過ごすのとでは楽しみ方が違います。
きっと人生も同じ。
「死」という現実から目を背けて過ごすのと、受け入れて過ごすのとでは楽しみ方が違う。
限られた時間だと理解することで、生きることに喜びを感じ、そして感謝をする。
これだけなら割とハッピーなんですが……実はその後、私は虚無感に襲われました。
それは「人が死ぬとはどういうことか?」について本気で考えてしまったから……。
天国や地獄、魂や幽霊なんて発想は、残酷な現実から目を背けるための口実でしかありません。
そんな妄想は止めて、もっと現実的に「死」と向き合ったとき……それは『無』になることだと理解しました。
「お金はあの世に持って行けない」なんて言いますが、本当は物質的な問題じゃない。
誰かと過ごした思い出も、蓄えた知識も、全てが『無』になってしまう。
今、まさに五感で感じていることや、思考を巡らしていることすらも二度と出来なくなる。
本当に「自分という存在」がこの世界から居なくなってしまうと理解したとき、私はこれまでに味わったことがないほどの恐怖を感じました。
生きていることに喜びを感じていればいるほど、とてつもなく膨れ上がった恐怖に押し潰されそうになる。
私は自分の中に「ニヒリズム(虚無主義)」を見ました。
生きる喜びとは
日々、自分が生きていることに喜びを感じながらも、同時に、それら全てを失う虚しさがつきまとう。
でも決して自暴自棄になっちゃいませんよ。
毎日を一所懸命に生き、様々な出会いに感謝し、人生を謳歌することで自分の中のニヒリズムは影を潜めていました。
ただ……もしかするとこのときは「良くない意味での刹那主義」に偏っていたのかもしれませんね。
「今、この瞬間だけが良ければそれでいい」というような……。
そんな感じで十数年が経ち、私が30歳を目前に控えたときに父親が亡くなりました。
このとき、再び虚無感に襲われます。
父親は個人仕事でしたが、顧客や取引先からの信頼も厚く、私自身も一人の仕事人として心から尊敬していました。
それがどうでしょう。
自分の職場に行くと、ロクに仕事も出来ないくせに勤続年数だけで偉そうにしている人間がいる。
世の中を見渡せば、不正だの横領だのと欲に目が眩んだり、猥褻だの飲酒運転だの万引き(窃盗)だのと身勝手な行動をとる人間もいる。
そういう連中は皆、この先も笑える時間があるというのに……コインは俺の親父にだけ裏を向けやがった!
さすがに、このときばかりは心の中がドス黒くなりましたね。
でも、そんな怒りや憎しみをもってしても「不条理なルール」に抗えるはずもなく、結局は全てを受け入れるしかありません。
当時の私は仕事に打ち込むことで心のバランスを保っていましたが、それでも虚しさだけは残ります。
冒頭で話した『寿命』に気付いたのは、その後、2年が経ってからのこと。
奇しくも事故を起こすまでの「確実に生きていた16年」と、その後の「本当は無かったかもしれない16年」が並んだとき……
私は『生きる』ということが、ほんのちょっぴり理解出来たような気がしました。
与えられる命は偶然であり、失う命もまた偶然である。
ともすれば「自分はこの世界に生まれ、生き延びて然るべき存在だ」という考えには至らない。
全ては偶然が与えたものだから。
ならば投げたコインが表を向いている間だけ、その恩恵にあずかろう。
私はバイク事故以来、生きる喜びを感じていましたが、今になって思うと、それはたぶん「死んでいない喜び」だったのかもしれません。
つまりは、命を「自分の持ち物として失いたくない」という気持ちの裏返し。
でも本当の生きる喜びというのはそういうことじゃない。
ただ目の前のコインが「表を向いている偶然」を喜ぶことだったんです。
そこに気付けたおかげで、私は仮に60歳で人生に幕を下ろすことがあっても、その現実を受け入れる覚悟ができました。
いや……たとえそれが明日でも受け入れられるでしょう。
なんせ今まで以上に“喜びと感謝”をもって日々を生きていますから。
自分の寿命を決めた本当の理由
私の人生が60歳までだと仮定したのが32歳……この時点で既に折り返しを迎えていました。
残された時間がこれまでよりも短いというのは、やはり寂しく感じます。
でも、それ以上に「限られた時間」が愛おしく感じました。
ともすれば、私がするべき事は一つ……自分がやりたい事をやるだけです。
与えられた時間に感謝し、今を生きる自分を大切にする。
減りゆく日数を憂い悲しむこと無く、ただひたすらに命を燃やすだけです。
これは先ほどのような「良くない意味での刹那主義」ではありません。
“本来の意味”での刹那主義として、この一瞬一瞬を大事に生きる。
私がウィジェットで9000日以上のカウントをしているのは、この気持ちを忘れないためです。
一分毎にカウントされていく画面を見ては、「自分の人生を愛せているか?」を確認するために。
どうですか?
なかなかハッピーな話でしょ?
それでも「寿命を決めるのは悲しい」って思いますか?
じゃあ、もう一つ本当のことを話しましょう。
今回、私は「60歳で死ぬかもしれない」と言いながらも「60歳で死ぬつもりはない」と言っています。
矛盾?違います。
これは人生を賭けた大勝負。
その時にコインが表を向けば私の勝ちなんです。
勝負に勝ち、60歳以降の人生を手にすると思うと今からワクワクが止まりません。
冒頭で頭の中は“まとも”じゃないと言いましたが、私は中々にクレイジーな男です。
「生と死」が偶然によるものだとすれば、そこにギャンブルの要素を見出してしまう。
でもこういう考え方もアリじゃないですか?
毎日コインが投げられているとするなら、毎日が勝負の日です。
もちろん、そこに賭けるものは私が持っている“全て”
思い出や知識、珈琲を味わう喜びや煙草を燻らす安らぎも含めた「私の存在全て」を賭けます。
ならば、もっともっと自分を高めないといけない。
毎日を“価値あるもの”にしなければいけない。
だって「賭けるチップ」は多ければ多いほど勝負が燃えますからね。
きっと本気の勝負が出来たなら、勝っても負けても笑えるはずですよ。
私は60歳で笑うため、願わくはそれ以降も笑い続けるため、この気持ちを忘れないためにもウィジェットで大勝負までの日数をカウントしています。
どうですか?
さすがにこれなら悲しくはないでしょう。
大事なのは「笑えるかどうか?」
今回の話、決して私のような生き方をオススメしているわけじゃありません。
ただ、こういう「死生観」も悪くないと思います。
現に私はハッピーですから。
多くの人は『死』というものを考えたくない、真正面から向き合いたくないと思っています。
時に、それを“穢れ”と呼ぶかもしれません。
でも、やはり漠然と「自分は生き続けるだろう」と目を背けるのと、「いつか終わるだろう」と覚悟するのとでは人生の愛し方が違います。
だから、今一度「死生観」も含めて人生と向き合ってみてはいかがでしょうか?
私が伝えたいのはそういうことです。
人生は儚く、そして虚しい。
だからこそ美しく、だからこそ狂おしい。
それを『不条理』というのなら……これほど滑稽なものは無い。
人生には「最終的に死んでしまうのに生まれてくる」という壮大な“ツッコミどころ”があります。
ならば“オチまでのフリ”は大事に育てたほうが面白いんじゃないですかね。
コメント
興味深いお話でした。
こんな考えもあるんですね…