茶道に表千家と裏千家がある理由が驚くほど単純すぎた話

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ジョンです

アカン…、お見合いなんてしたことないから、何を話していいかわからへん

そんなもん、話すことはだいたい決まってるから大丈夫や。まず趣味を聞くねん

趣味?

そう、ええとこのお嬢さんなんやろ?そういう人の趣味っていえば、だいたい華道か茶道って答えるねん

そういうもんなんかなぁ?

そういうもんやねんて

たぶん「お茶を少々……」とか言うから、そしたら裏ですか?表ですか?って聞いて、話を合わせといたら大丈夫や

ほんまに大丈夫なんやろうな?信じるで

……10分後。

はじめまして

はじめまして

……

……

あ…あの、ご…ご趣味は?

ビデオ鑑賞です

裏ですか?表ですか?

※『吉本新喜劇』の懐かしいネタです。

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表千家と裏千家

子どもの頃は『茶道』というものを詳しく知りませんでした。

「畳の部屋で、かしこまってお茶を飲む」といったぐらいの認識です。

それでも『表と裏』の流派があることぐらいは、なんとなく知識としてありましたよ。

流派による詳細な作法の違いは、大人になってもわかりませんけどね。

それにしてもなぜ『表千家』と『裏千家』があるんでしょう?

名前に『裏』なんて付いていたら、なんとなく「陰に生きる流派」みたいに感じてしまいます。

もちろんそんなわけはなく、何かしらの『秘伝』が隠されているわけでもありません。

表千家、裏千家という名前からもわかりますが、どちらも『千利休』を開祖としていて、この二つはそもそも同じ流派で『利休流』と呼ばれていました。

この利休流が、後に表と裏に分かれてしまうわけですが……なんか壮絶な争いでもあったんですかね?

利休は、「鳴かせてみせよう」でお馴染みの豊臣秀吉に切腹を命じられ、千家は一時断絶の危機にありました。

しかし、会津若松の蒲生家に預けられていた利休の子、『小庵』が秀吉に召し出されることとなり、千家の再興がかないます。

小庵の子である『宗旦』は、寺に入って僧としての修行をしていましたが、千家が再興すると『還俗』して千家の三代目となりました。

※還俗というのは「お坊さんになって俗世間から離れたけど、また戻ってきたよ」みたいな感じです。

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単純なネーミングセンス

宗旦は、老齢になって余命いくばくもないことを悟ると、それまで住んでいた屋敷を息子の一人『宗左』に譲ります。

そして、自分は「北側裏手」にある隣接地に屋敷を建て、別の息子の『宗室』とともに移り住みました。

いわゆる隠居というやつです。

ところが、その後、宗左と宗室は意見が合わずにいさかいを起こし、別々の流派を立てることになります。

ここでようやく……というか、利休の「ひ孫の代」になって『利休流』は分裂しました。

さて、分裂した流派には、それぞれの名前をつけなくてはなりません。

カンが鋭いなら、もうおわかりかもしれませんね。

そうです。

宗左の住む屋敷は、表側にあったので『表千家』
宗室は裏側に住んでいたので『裏千家』

家の場所かよ!!

「裏と表」の理由は意外と単純なものでしたね。

ちなみに、その後、現在に至るまで、表千家の家元は代々が宗左を、裏千家の家元は代々が宗室を名乗っています。

ただ、宗左と宗室はいさかいを起こしたといっても「茶の湯の作法」についてだったので、深刻に敵対したわけではありません。

それぞれがそれぞれに盛り上がっていったので、結果として茶道全体の発展と普及に繋がったと言えます。

また、裏千家は明治以降、職場を中心とした婦人層や、女学校へも茶の湯を広め、近年では海外への普及にも努めているそうな。

ジョン曰く
流派が分かれると聞くと、どうしても争い事をイメージしてしまいますが、そうでもない場合もあるんですね。
きっと、もともとの利休流が伝えている『心』が、そういった争いからかけ離れたものだからかもしれません。
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